ヤマはつながっている−石炭を通じた連帯

一山一家

空知の旧産炭地域は、北海道で最も厳しい状況に置かれています。

財政破綻した夕張市の再建は、始まったばかり。さらに他の産炭地自治体も、夕張市と似た環境と状況にあることを、忘れることはできません。

空知は、北海道における自治の将来にとっての試金石と言えます。

地域再生に向けたキーワード、それは「一山一家」です。

最盛期、この石狩炭田の上には、100を超える炭鉱に約50万人が暮らし、「一山一家」の下で共同体に近い独自のコミュニティーがありました。その雰囲気は、なお息づいています。

今こそ、個々ではなく空知産炭地域全体が「一山一家」となって、借り物ではない足下にある資源を使って、危機を乗り越える必要があるのです。

ヤマのネットワーク

雰囲気や習慣はヤマごとに異なり、とても個性的です。しかし、同じ「炭掘る仲間」としての連帯は強いものがあり、それは今でも変わりません。

ヤマのつながりは空知にとどまりません。石炭の生産・流通を通じて、小樽・室蘭・苫小牧や江別をはじめとする道内各都市や、国内へとつながってきました。

さらに、かつて機械・技術を導入してきたドイツ・ルール鉱業地域とは、近年になって炭鉱の記憶を活かした地域振興をテーマに交流が展開されています。

このようにヤマの輪は、道内から世界へと拡がっています。

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全てはヤマから始まった−北海道近代史の窓

炭鉱から始まった北海道

1882(明治15)年、石炭運搬のための幌内鉄道が、日本で三番目の鉄道として全通しました。
札幌では、鉄道開通で輸送費が低減し、物価が一挙に下がったと言われています。石炭を運ぶための鉄道は、札幌が道都として発展するための基盤も整えたのです。さらに、内陸部の開拓は、鉄道によって一気に加速されました。

まさに炭鉱の歴史は、明治初期原生林が繁茂していた北海道を、今日の姿に変える歩みとともにありました。

私たちの暮らしの原点は、どこにあるのか? 炭鉱の果たした役割を、改めて思い返して下さい。

身近にあるヤマ

皆さんは、空知に来なくても、容易に各地で炭鉱の記憶に接することができます。

例えば、新千歳空港から見える森は、かつて坑木として植林されたものです。他にも、室蘭の製鉄・製鋼、江別の煉瓦、戦後の生協運動、タクシー会社、札幌宮の森住宅地、テレビ局、映画館のオールナイト上映、地質コンサルタント…

炭鉱を起源とするものが、今日の暮らしを作ってきました。

そして何よりも、皆さんの祖父母・両親や知人に、必ず一人は炭鉱の関係者がいるはずです。

炭鉱遺産は、自分の身近な人が、北海道で懸命に生きてきた証しでもあるのです。

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明日に生きるヤマの記憶

残すだけではなく

地域再生に向けて炭鉱の記憶を生かすためには、残すことだけが方法ではありません。

  • 《保存》過去の価値を評価して未来に残す
  • 《伝承》未来にとって必要な価値を過去から掘り出す
  • 《活用》現在の視点を加えて未来に生かす

という、多面的な価値の創造と表現が不可欠です。

「場」を作る

形ある炭鉱遺産は、格好の目印となって人が集まってきます。

そこに「場」を作ると、その奥に埋もれている、形のない炭鉱遺産が見えてきます。

思い・仕組み・技・悲しみ・うれしさ…

これら有形・無形の炭鉱の記憶は、新たな価値と活力を生む、空知のエンジンです。

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